コラム)愛国心の「芯」―「人間」が大事/川上文雄のじんぐう便り…23

手描き絵の「和ろうそく」(高さは芯を含めて約9センチメートル)。京都市左京区の京都伝統産業ミュージアムで購入
「日本人なら日本の国を愛するのは当たり前」という言い方があります。でも、その意味が「自分の国が好きだという思いは自然な心情であって、それ以上あれこれ考えないで受け入れるのが愛国心」だとしたら、受け入れたくありません。持つなら「自前の愛国心」。自分の言葉で考えたい。
愛国心をめぐる言論がさまざま飛び交う中、ぶれることがないように、しっかりした芯のある愛国心を持ちたいと思いました。めざしたのは「幸せを追求する人間を大事にする」愛国心。その「人間」から特定の人を排除しない愛国心です。
ある時AIで「愛国心」を検索したら、「自分が属する国や共同体に対して抱く愛着や忠誠心」とありました。これは「国や共同体」という「場所」に焦点をあわせた説明です。でも、その場所には「幸せを追求する人間」が生活しています。場所と人間は切り離せない。むしろ、人間あっての場所です。「人間が大事」という確かな芯があれば、「場所」で生活する人間から特定の人を排除することはないでしょう。
国ではなく身近な地域社会(以下、地域)に焦点を合わせました。国も地域も、「自分を含めた人々が暮らす場所」という点では同じです。重要なのは「人間を大事にする」という語句のなかにある「人間」の捉え方、描き方です。
支えあう、依存しあう
この「幸せを追求する人間」に言葉を積みあげます。「縁あってその場所で暮らす人々」「多種多様な活動を通じてつながりをもち、支えあい、依存しあいながら、自分たちの幸せな生活を追求する人々」(私自身もその一人)。以下、「人々」と「場所(の縁)」が結びついた言葉として「人間」を使います(注1)。「人間を大事にする」愛国心が大事にするのは、そのような「人間」です。
いま「多種多様な活動」と言いました。すべての人がそのどれかをしています。基本的には一人で複数、多数こなしていることがほとんどです。「活動」に含まれるものは何か。収入をともなう「職業」という活動、無報酬のボランティア的な活動(団体、個人)…。暮らしている地域に目を向ければ、多種多様な活動の様子が、関わる人びとともにたくさん見えてきます。名前も次々に浮かびます。「子ども食堂」のあの人、「ニュース奈良の声」の人たち…。
ところで、活動しているようには見えない活動があります。障害のある人のうち、重度障害(とくに重複重度障害)の人は、世間一般の見方では「活動していない人」にされてしまいがちです。
しかし重度障害の人は活動しています。もちろん重複重度障害の人も。第1に、ほかの人すべてと同様、幸福追求の活動をしています。これは、自分をケアする人たちとのつながりの中での追求です。たとえ言葉は使えなくても思いを伝えあいながら、交流しながら生活している。一方的な「ケアする・ケアされる」関係ではありません。
さらに第2のこと。障害のある自分の幸福追求が、ケアする人の活動を成立させています。その意味でケアする人の活動は自分に依存している。相互に依存している、つまり支え合っているということです。
この「第2のこと」は重度障害の人だけではなく、すべての人間・すべての活動に当てはまります。たとえば地元の医療機関を利用すれば、利用するという活動をしたことになる。患者がいて医療活動が成立します。そのほかの活動も同じ。すべての人間が多種多様な活動への関わりを通じてつながりをもち、支えあい、依存しあいながら、幸せな生活を追求している(日本国憲法につなげれば「健康で文化的な生活、そして平穏・平和な生活」)。
すると「自分は地域の一員である、地域は自分の居場所である」という思いが生まれて、「(地域という)場所への愛着心」が無理なく自然に育ちそうです。これが「人々」と「場所(の縁)」を結びつけた「人間を大事にする」愛国心です。
誰も排除しない
「すべての人」という語を使う理由は、誰かを区別・排除しないためです。「すべての人(私もその一人)が、つながりをもち、支えあい、依存しあうという関係の中で活動している」と見なします。そして「地域での幸せな生活が維持されるのはその活動のおかげ」と考えて、すべての人に敬愛の念を持つようにします。その思いが「人間を大事にする愛国心」の「芯」です。だから「(上に述べた)重度障害者像は非現実的かもしれない」と疑うことはありません(すでに説明したように、この疑いは当たっていない)。
外国籍の人についてはどうでしょう。実際に「あの地域では(自分が暮らす地域では)生活態度に問題のある人が多い」と言う人たちがいます。それが真実なら、現実を無視することなく対処します。その意味は、「すべての人間を大事にする」という「愛国心の芯」がぶれないようにしながら、現実の問題に対処するということです。「いっしょに地域生活のルール作りをしましょう」と呼びかける、などの対応を考えます。
ここで自問したいことがあります。「すべての人に対して、私と同じ内容の愛国心を持ってほしいと願うのだろうか」。願っていないと言えばウソが混じります。でもすでに書いたように、「すべての人」という語を使うのは誰かを区別・排除しないためです。だから「(筆者の愛国心は)つながりを強調しすぎている」「地域の人たちとのつながりはごく緩やかにしたい」と考える人の距離感を尊重します。各自「自前の愛国心」を持てばよいと思います。
私自身も、誰とでもどんな場合でも、親密につながりたいとは思わないで、親密度を調整しながら生活しています。これは「親密な仲間」になろうとしない人間を排除する、ということではありません。もちろん「日本人ならこの考えで一致団結するのが当たり前」とか「日本人なら国旗損壊罪に賛成するのは当たり前、それが愛国心だ」とか思うこともありません。
[注1]ちなみに、仏教用語の「人間」は「人々」と「場所」を一体としてとらえた言葉で「人の住むところ」「世の中」の意味があります。筆者の「人間」はそれに近い使い方をしています。
(随時更新)

かわかみ・ふみお=客員コラムニスト、奈良教育大学元教員、奈良市の神功(じんぐう)地区に1995年から在住


