ニュース「奈良の声」のロゴ

地域の埋もれた問題に光を当てる取材と報道


第5回「奈良の声」読者会の報告

ジャーナリスト浅野詠子

浦上キリシタン流配碑、建立100年 奈良県、カトリック大和郡山教会で11月3日に記念行事

公開された子安観音像=2026年11月2日、大和郡山市城南町、カトリック大和郡山教会、浅野詠子撮影

公開された子安観音像=2026年11月2日、大和郡山市城南町、カトリック大和郡山教会、浅野詠子撮影

 「浦上四番崩れ」と呼ばれた明治新政府による浦上キリシタンの弾圧。強制収容された信徒の多くの命が失われた。奈良県では郡山藩などが収容の命を受けた。事件を伝える石碑が大和郡山市内に建立されて今年で100年。同市城南町のカトリック大和郡山教会は11月3日、記念行事を催す。

 事件は慶応3(1867)年から明治2(1870)年にかけて、旧浦上村(現・長崎市)のキリシタン約3300人が捕縛され、各藩に流配となり、過酷な収容環境の中で約600人が死亡。奈良県では郡山藩(大和郡山市)と津藩(奈良市古市町)が計108人を収容した。「浦上四番崩れ」は国際的な非難を浴び、政府は1873年、非改心者の帰村を認めたが、奈良県ではこのうち9人の信徒が帰村を待たずに病気などで死亡した。

 大和郡山教会は3日の行事で記念ミサを行う。幕末のキリシタン指導者、高木仙右衛門のひ孫に当たる高木慶子シスター(上智大学グリーフケア研究所特任所長)が「信教の自由と浦上信徒」と題して講演する。

 大和郡山市綿町の古い民家の屋根裏納戸から2022年に発見され、浦上キリシタン資料館に移管された子安観音像(石像、11.5センチ)が11月2日、同教会に運ばれ、行事に先立ち公開された。

 同教会によると、県立奈良高校の教育活動の一環として行われた調査で発見された。当時の担当教諭、仲野純章さん(現・四天王寺大学准教授)が、キリシタンが聖母マリアに擬して信仰した「マリア観音像」である可能性について詳しい調査を進めている。

 この民家の近くに信徒が収容された建物があった。郷土史家の長田光男さんによると、捕縛された信徒の収容所は大和郡山市内に数カ所存在した。

大和郡山市内で浦上キリシタンが収容されたとみられる場所

 記念碑はフランス人宣教師のヴィリオン神父が建てたとされる墓碑がもとになった。神父自身も大浦天主堂で政府関係者に一時拘束された。神父は島根県津和野町など各地で殉教者の顕彰に努め、大和郡山市では同市茶町の雲幻寺(現・良玄禅寺)に流配の犠牲者が埋葬されていることを知り、1926年、同寺に墓碑を建てた。

 死亡した9人のうち、この墓碑に名前が刻まれたのは6人。このほか墓碑に名前はないが、奈良県天川村の銅山掘削の労働を強いられ、死亡した信徒がいて、同村営墓地に葬られたという。

 墓碑は1969年、遺族や教会関係者の尽力で大和郡山教会に移され、記念碑として作り直された。殉教者名が表と裏に刻まれていた墓碑を縦二つに切断し、記念碑の中段正面に並べてはめ込んだ。

 教会の広報担当、宮﨑重明さん(76)は、原子爆弾の焼け跡が残る長崎市で生まれた。「浦上四番崩れ」で津和野藩に流罪となったキリシタン指導者、守山甚三郎は「先祖の一人」と大叔母から聞かされた。

 「日本の宗教史上、浦上四番崩れほどひどい弾圧はない。浦上村全村に及ぶ根こそぎの人権侵害だった。日々、教会で世界平和を祈っているが、戦禍はいまもってなくならない。碑の建立100年の機会に、一人でも多くの県民の方々に事件を知ってもらえたら」と話した。

浦上キリシタン大和郡山流配記念碑=大和郡山市城南町、2026年11月1日、浅野詠子撮影

浦上キリシタン大和郡山流配記念碑=大和郡山市城南町、2026年11月1日、浅野詠子撮影

筆者情報

読者の声